【画像あり】新1万円札は渋沢栄一、5千円札は津田梅子、千円札は北里柴三郎に決定! 500円硬貨 裏面 東京駅 藤の花 葛飾北斎 神奈川沖浪裏 新札 偽造防止

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新1万円札 渋沢栄一

裏面 東京駅駅舎

5000円札 津田梅子

裏面 藤の花

千円札 北里柴三郎

裏面 葛飾北斎「富嶽三十六景」神奈川沖浪裏

新500円硬貨

裏面

2019年4月9日、麻生副総理兼財務大臣が閣議の後の記者会見で、政府が紙幣のデザインを20年ぶりに変更すると発表した。

新紙幣は、5年後の2024年上半期ごろに発行される。

日本の紙幣は、偽造防止のために、20年周期で新しいデザインに変更されてきた。

新1万円札に、渋沢栄一。裏面には、東京駅の駅舎

5千円札に、津田梅子。裏面には、藤の花

千円札に、北里柴三郎が採用された。裏面には、江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」が描かれる。

また500円硬貨も、偽造防止のため、2色硬貨にデザインと素材が変更される。2年後の2021年上半期に発行される。

現在流通しているお札は、2024年の新札発行後も、引き続き使用できる。

二千円札は、変更なし。

麻生副総理の発言:
 日本の紙幣は偽造防止のために、20年周期で新しいデザインに変更されてきた。新札を発行する準備に約5年かかるので、このタイミングで発表した。

 渋沢栄一は「新たな産業の育成」、津田梅子は「女性の活躍」、北里柴三郎は「科学技術の発展」を思いに込めた。現代にも通じる諸課題に尽力した、新元号「令和」にふさわしい人物だと思う。

ソース NHK

【画像あり】新1万円札は渋沢栄一、5千円札は津田梅子、千円札は北里柴三郎に決定! 新札 偽造防止

新1万円札の渋沢栄一とは

渋沢栄一は、1840(江戸時代の天保11)年生まれ。埼玉県深谷市血洗鳥の農家に生まれた。

家の農業を手伝いながら、父親から勉強を教わった。「尊皇攘夷」思想に影響を受けた渋沢栄一は、高崎城乗っ取りの計画を立てるが中止して、京都に向かう。

一橋慶喜に仕える事になった渋沢栄一は、一橋家の家計を改善し、その功績を認められ、27才の時に、徳川幕府15代将軍となった徳川慶喜の実弟、水戸藩主の徳川昭武に同行しパリの万国博覧会など、欧州諸国を見学した。

時代は明治に変わり、欧州から帰国した渋沢栄一は「商法会所」を静岡県に設立する。その後明治政府の大蔵省に入る。

1873(明治6)年に大蔵省をやめた渋沢栄一は、「第一国立銀行」の総監役になる。企業の株式会社化や「道徳経済合一説」を発表するなど、生涯に約5000以上の企業に関わった。

その功績を認められ「日本資本主義の父」と呼ばれた。昭和6年、満91才で死去。

なお一般人にあまり知名度がないのは、財界人だからだと言われている。

5千円札の津田梅子とは

津田梅子は、1864(江戸時代の元治元)年12/31に、東京都新宿区南町に生まれた。父は、"キリスト教会の三傑"と呼ばれた津田仙。津田仙は、青山学院大学を創立や、日本初の通信販売などを行ったことで有名。東京府士族だった。

津田仙が北海道開拓使次官の黒田清隆と出会い、その縁で娘の津田梅子をアメリカに海外留学させる事になった(明治4年)。梅子は岩倉使節団と共に、船でアメリカに向かう。

アメリカでは、画家のチャールズ・ランマンの家に預けられ、英語やピアノを習いながら生活していた。その過程で津田梅子は、キリスト教信者になった。

梅子は、明治15年11月に日本に帰国した。アメリカで幼少期を11年間過ごした彼女は、アメリカの影響を受けており、日本語がしゃべれないほどだった。

明治16年に行われた夜会で、伊藤博文と再会し、桃夭女塾(とうようじょじゅく。後の実践女子大)を設立した下田歌子を紹介される。

日本生活がうまくいってなかった梅子は、伊藤博文の家に滞在し、桃夭女塾や華族女学校で英語を教えた。歌子から日本語を教わった。

明治22年、梅子24才の時に、再度アメリカに留学する。生物学を学んで、3年後に日本に帰国した。

帰国後は、華族女学校や明治女学院で講師を務め、自宅に女学生を預かるなど、女子教育に積極的に取り組み始めた。

アメリカの万国婦人倶楽部連合大会に行き、ヘレン・ケラーに会い、イギリスのナイチンゲールに会うなど、積極的に外交分野にも取り組んだ。

明治33年、梅子(35才)は学校の講師をやめて、女子英学塾(後の津田塾大学)を設立する。「身分にとらわれない女子教育」を理想とした。

梅子の教育方針は厳しく、逃げ出す生徒もいた。当初梅子は、無償で授業を行っていたが、学生や教師が増えて経営が厳しくなり、社団法人化して対応した。

1919(大正8)年、梅子は体調を崩し、塾長を辞任する。鎌倉の別荘で闘病生活をしていたが、10年後の1929(昭和4)年に脳出血で亡くなった。満64才。

津田梅子の功績は、「日本の女性教育の第一人者」だと言える。

津田梅子とアメリカ留学していた大山捨松の生涯

千円札の北里柴三郎とは

北里柴三郎は、1853(江戸時代の嘉永5)年12/20に、熊本県阿蘇郡小国町で生まれる。父は庄屋(江戸時代の村役人)だった。両親とも教育熱心で、柴三郎は親戚の家に預けられて厳しい教育を受けた。

1870(明治3)年、熊本医学校に入学し、オランダ人の医師マンスフェルトのお気に入りになる。

1875(明治8)年には東京大学医学部に進学した。東大医学部では、教授の論文にケチをつけて大学側と上手くいかず、留年を重ねた。

1883(明治16)年、8年後に医学士になる。在学中に「病気は予防するのが大事」だと確信する。

1886(明治19)年、ドイツに留学し、微生物研究者コッホの元で研究にはげんだ。

1889(明治22)年、ドイツ留学中に「破傷風菌の純粋培養」に成功する。さらにどの毒素の免疫抗体を発見し、それを応用して「血清療法」を確立した。この功績により、北里柴三郎の名は世界的に認められた。

1892(明治25)年、ドイツから帰国した柴三郎は、福沢諭吉の支援を受けて「私立伝染病研究所」を設立。

1893(明治26)年、日本初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」を設立。

1894(明治27)年、ペストが香港で流行し、柴三郎は現地に行き「ペスト菌」を発見した。

1914(大正3)年、伝染病研究所が文部省に移管され柴三郎は所長を辞任する。新たに「北里研究所」を設立し、細菌学、免疫学の教育を行った。

1917(大正6)年、慶應義塾大学医学部を設立。日本医師会を設立。その他にも、各種医学団体や多くの病院の設立に関わった。

北里柴三郎は、「日本医学の父」だと言える。

その時歴史が動いた!北里柴三郎

 

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